moratisのレビュー

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「花束みたいな恋をした」の「花束」って何?※ネタバレあり

映画『花束みたいな恋をした』を観た。

あらすじ

山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)は明大前駅で出会う。終電を逃し、なりゆきで朝まで共に過ごした二人だったが、そこで意気投合。二人は押井守を神と仰ぎ、天竺鼠のライブチケットを買い、今村夏子の本を読み、きのこ帝国を聞き、じゃんけんでなぜ紙が石に勝てるのかに疑問を持っていた。

すぐに仲良くなった二人。付き合い、同棲し、結婚まであるかと思えたが、ちょっとしたすれ違いで二人の距離は広がっていく。

感想(以下ネタバレあり)

この映画、刺さる。映画を観た後に舞台挨拶とかをYouTubeで観たが、「3~40代のおじさんがそろって過去の恋愛を語り出す」といわれてはっとした。気づいたらおっさんだった。

まず何が刺さるって、二人の関係性。距離の取り方。「今日会うためのチケットだったってことですね」という台詞に見つめ合う二人。麦が作った映画を「観たい!」という絹。絹が帰ろうとするのを追いかける絹。同棲してからも、すれ違ってからも、二人とも冷静で、声を荒らげることはあってもすぐにクールダウンする。そんな二人の人間性が刺さった。

それから、最後のファミレス。別れを躊躇する麦と揺らがない絹。男女の違いというと最近はセンシティブだけど、いわゆる恋愛における男性像、女性像に重なる。お互い悲しいはずなのにね。考えは違う。そこが面白くもあり、切なくもある。

日常を切り取った映画

この映画の魅力は、大きなきっかけがない、日常を描いた部分にあるという。何気ない日常。付き合ってからすれ違って別れるまでの5年間。劇的な出来事はないからこそ、誰でも共感できる。

恋愛って不可逆変化だなあ、なんて最近はよく思う。最初は自分の曲げてでもその人に尽くしたいと思う。100点の相手なんていない。70点80点の共通点があり、そこから合わない20点30点は自分で合わせにいく。麦と絹も、映画や本、音楽の趣味は合ったけど、絹はガスタンクなんて興味なかったし、麦はミイラに引いていた。だけど、二人でいることが重要で、二人でいるためならなんでもできちゃう。その「合わせても良いかな」「この人のために合わせたい」と思うことが恋なのかな、なんて。だけど、ちょっとしたすれ違いを経験してしまうとそこには戻れない。70点80点あると思っていた共通点は、気づけば50点60点になっていて、自分が合わせようとしていた20点30点も失われ、昔との差に失望する日々。それが麦と絹にとっては、仕事と夢の折り合いであり、ゼルダであり、パン屋さんの閉店だった。その後にいくら「初めからやり直そう」って思っても、戻れない。やり直せない。なぜなら、最初あった「この人のためなら受け入れられる」っていう盲目さがもうないから。

花束って何なのか

題名にある「花束みたいな恋」って、何なのだろうか。考察動画なども見てみたが、「男は捨てる場所を探す、女は飾る場所を探す」「二人の思い出一つ一つが花」などさまざま。よくわからない。でも私が直感的に思ったのは、その一瞬が綺麗だったってことなのかな、ってこと。花束って、もらったときはとても綺麗だし、感動する。でもずっとは綺麗でいられないし、根が張っていない以上、やがて枯れる。もしかしたら、それでも思い出すのは枯れたことじゃなくて、もらったときの綺麗な花束であり、もらったときの感動的な瞬間そのもの、みたいなこともあるのかも。「はじまりは、いつもおわりのはじまり」が象徴するこの恋愛は、まさにこの花束みたいな恋だったのかもなあ。花束みたいな思い出だからこそ、「音楽を聞くときはLとRを分けちゃだめ」って言いたくなっちゃったんだろうな(わざわざ言いに行くのには私怨もある気がするけど)。

追記:「勿忘」だと、「願いが叶うのならふたりの世界また生きてみたい」「巡り巡る運命を超えて咲かせるさ愛の花を花束を」ってある。Awesome City Clubの解釈では、現世での恋が花一輪ぶんで、それを来世でまた一輪咲かせて…やがて花束を作る、みたいなスケールの大きい話なのかもしれない。そうすると、花束は「一生に一度の恋を何回も輪廻転生して束ねたもの」になるか。

おまけ

テレビドラマと実写映画の違いはわかってなかったけど、音の使い方が違うのかもな、と思った。映画は、BGMとか雑音がなく、モノローグや生活音がメインとなるシーンが多い気がする。日常の喧噪の中で観るテレビと違い、映画は映画館という静寂な空間で観るからなのかな。これが一般に言えることなのか、私のイメージにすぎないのかはわからないけど。