moratisのレビュー

映画、本、音楽などのレビューを書きます。

春夏秋冬/フォーシーズンズ

 東京国立博物館で行われている、「春夏秋冬/フォーシーズンズ 乃木坂46」を見に行ってきた。あまり行くつもりはなかったのだが、バレエ「かぐや姫」を見に上野に行く用事があったので、ついでに行ってみることにした。

 しかし、これが非常によかった。何が良かったかって、コンセプトがとても面白かった。「日本美術に描かれた花、それはわたし。花は誰かの添えものではない」というキャッチフレーズからは想像できなかった、深い世界が広がっていた。

 乃木坂46の9人のアイドルがそれぞれ花に擬えられている。これ自体も『源氏物語』の花の比喩に似たものなのであるが、もっと本質的な、日本美術が描こうとしてきたものを内容面でも、形式面でも、現代の最新の技術と、乃木坂のパフォーマンスで表現しよう、としているところが一番のポイントだ。

 展示は7つあったので、順に説明しよう。

1.日本美術の遠近表現(桜×齋藤飛鳥

 狩野長信「花下遊楽図屏風」では、宴の様子と、それを右下から幕を隔てて眺める女性の姿が描かれている。ここでは、平面的な屏風の絵の中で、幕の間から覗く人物を描くこと、そしてその視点から遠くなる左隻の方が小さく描かれていることから、鑑賞者が右から左に向かってみるような構図を浮かび上がらせている。

 これを現代に置き換えるとどうなるか。奥に斜めに設置されたスクリーンで舞う齋藤飛鳥。そしてその手前にはスリットカーテン。このスリットカーテンにも映像が投影されている。遠近感を出す、というか、物理的に奥行きを持たせてしまったこの展示は、目からうろこであるし、ちょっとずるい。しかしこれも、現代の技術あってこそなのだろう。絵画・映像に奥行きを持たせるのに、物理的な二層構造にし、スリットカーテンを用いるというのが、この展示の醍醐味だった。

2.妖しい美(藤×遠藤さくら)

 題名からも想像しやすいかもしれない。上村松園の絵「焔」は、『源氏物語』で生き霊になった六条の御息所がモチーフになっているという。愛や美というのは素晴らしいものだが、一方で行きすぎると恐ろしくもある。そんなイメージ。

 これはシンプルに遠藤さくらのダンスに表われていたように思う。真顔で踊り乱れる遠藤さくら。白いネイルや藤色の飾りなど、髪やメイク、衣装などもどことなく慄しい。この慄しさは、同じ乃木坂にいた松村沙友理が「乃木坂工事中」#196トラペジウム大ヒット記念 勝手に演技力研修」で演じていた重い女を思い出した。

3.切り取られた瞬間(百合×久保史緖里 葛×山下美月

 酒井抱一「夏秋草図屏風」は、右に描かれる夏草、左に描かれる秋草、そして右上には野分の際に一瞬だけ表われる水たまり「にわたずみ」。これらはいずれも、季節の中の一瞬を切り取ったものだ。静止画である以上、どれも一瞬を切り取ったものにはなるのだが、「すぐに消えてしまうなんでもないもの」にこそ無常を感じてしまうのは何故なのだろうか。

 これを演じたのは久保史緖里と山下美月。ハイスピードカメラで撮影されたパフォーマンスは、高速でコマ送りをしているような映像として流される。パフォーマンスをする中で、それぞれのコマは一度きりのもの。そこに焦点を当てつつ、映像が連続的に進んでいく映像は、私たちに「この瞬間は二度と訪れないんだぞ」と警告しているのだろうか。

 「一瞬を切り取る」というのは短歌でも言われることである。短歌も短い言葉で表現する以上、不意の一瞬に焦点を当てることになる。しかしこれは「切り取られた一部から残りを推測する」ことを喚起し、鑑賞する場なのかも。

4.ループ構造(女郎花×生田絵梨花

 2階に上るとまず目の前に広がるのが一面の屏風とその上のディスプレイ。俵屋宗雪「秋草図屏風」は六曲一双が対になった作品で、右隻と左隻は地面がつながっているのだが、実はこの屏風、左右を反転させてもつながるようになっている。しかも、左右を反転させた方が花同士もつながってより接続が良くなる、という不思議な作品である。こんなことはありえないが、この屏風が何セットもあれば、あるだけつなげても一つの連続した絵に見える、ということだ。

 これをパフォーマンスするのは生田絵梨花。映像では生田絵梨花が起き上がって、仰向けに寝転がって、を繰り返しているだけである。しかし、繰り返しているからこそ、先の「ループ構造」が生まれる。屏風では空間的に描かれていたものが、動画では時間的に描かれている、というのも面白い。個人的には、解説にあった「絵が持っているループ構造を表現しつつ、そのときにしか出会えない一回性をも内包したインスタレーションだ。」という言葉が心に残った。繰り返しているからこそ、どこからどこまでを見るかによって印象が変わる。その切り取り方は無限にあるからこそ、一回性を持っている、ということだろうか。

5.秘められた風景(菊×賀喜遥香

 言わずと知れた菱川師宣見返り美人図」は、当時は少女の視線の先に一人の「男性」がいたことも常識的だったらしい。見返りという構図が多く描かれているからこそ、そこにある「描かれていないもの」が共通理解となって作品が生み出されていく。

 これは古典、特に和歌においても同じである。春になれば鶯がそれを告げてくれるし、冬の夜には女性が夫の帰りを待って砧を打つ。この共通理解があるからこそ文化は成熟していくものだし、だからこそこの文化は継承していかなければならない。

 話がそれたが、これを現代に落とし込んだのは賀喜遥香。中央では賀喜遥香が森の中で水と戯れている。しかしインスタレーションは、この両サイドにある2枚ずつのディスプレイまであって完成する。中央以外の4枚のディスプレイでは、賀喜は映らずただ水がはねていたり、木が揺れていたりするだけ。しかし、これこそ、描かれていないが共通理解でそこに想像されているもの、に他ならない。ただ、今回の「共通理解」という観点から考えると、個人的にはもっと攻めた内容の「描かれていないもの」も見たかった。言われてみればそうだよね、と誰もが思うもの、そして、描かれていないが描くに足るもの(つまり風景の続きとかではなく、そこにしか登場しない何か)があれば、より原作に忠実だったのかな、と思う。原作に忠実であることがよいこと、とは限らないのは言うまでもないことだが。

6.時間のジオラマ化(椿×星野みなみ 牡丹×与田祐希

 伝雪舟等楊「四季花鳥図屏風」は、右では青々とした松や竹を、左では白梅を描き、右から左で一年間の四季の移り変わりを描いている。これは3つ目の「切り取られた瞬間」の逆で、一つの作品の中に、時間の移り変わりをすべて入れてしまおう、という作品だ。
 これは星野みなみ与田祐希が演じた。12個並べられていたのは、裸眼で3D視できるという、ソニーのディスプレイ「ELF-SR1」。さまざまなシチュエーションで遊ぶ二人がそれぞれのディスプレイに表示されており、たしかに3Dに見える!しかもそれぞれのディスプレイには乃木坂46の歌詞が。それぞれの展示では、そこまで季節が強く意識されたものばかりではなかったし、時間帯も朝から夜まで(そしてわからないものまで)さまざま。そのため、解説では四季が描かれているとあったが、巡るのは一年だけではないなあと思った。一日の循環、そして一生の循環もある。さまざまなことをして遊ぶ二人の姿を見て、さまざまな尺度で巡る時間に思いを馳せた。

7.シュールなだまし絵(梅×梅澤美波

 最後は「白縮緬地梅樹衝立鷹模様」という振袖。この振袖は面白く、全体的には友禅染が施されているのだが、いくつか衝立が描かれており、その衝立の中には雪が積もった梅の木が部分的に描かれている。その梅の木は全体でつながっているかのようで、見えていない部分も勝手につなげて一本の梅にしてしまいたくなる。江戸時代ならではの遊び心あふれる作品。
 これを演じたのは梅澤美波。大きさも位置もさまざまな無数のディスプレイに現れる無数の梅澤美波。そのパフォーマンスを見ていると、たしかに左と右、上と下でつながっているような……?でもよく見るとつながっていない……?と頭が混乱したところで、「つながるかな」と考えている時点で作者の手のひらで転がされていることに気づく。雪をかぶったような梅澤が新鮮であると同時に、無数の梅澤というシュールさに少し笑いもこみ上げた。この笑いも江戸時代の心を継承しているのだと考えると、おそるべし。

 

 以上、長々と書いてきたが、総じて、昔から伝わってきた表現の感情、手法、心が現代の最新技術で作り直されているのは全体的に非常に感動的だった。ショップではメンバー全員が花に擬えられており、花アイコンなるものも作られていた。こちらもじっくり考えたいが、メンバーも花も知識がたりないのでできなそう。

冨岡義勇が好きだ

今回は『鬼滅の刃』について。最終話までのネタバレを含みます。

冨岡義勇とは?

言わずと知れた水柱で、炭治郎がはじめて出会った鬼殺隊士でもある。鬼に襲撃されたとき、姉蔦子にかばわれる形で一命を取り留め、最終選別のとき、錆兎が鬼を倒してくれたおかげで生き残った。それを引け目に感じている。

冨岡義勇の魅力

義勇といえば、「生殺与奪の権を他人に握らせるな」というセリフ。みんな口をそろえてこのセリフを言う。だけど、私にとってのポイントはそこじゃない。

義勇のポイントはどこかというと、常に優先順位を見誤らない冷静さと判断力だ。育手である左近次の教えあってこそかもしれないが、判断力がすごい。最終巻、炭治郎が死んだと思った義勇は、「また守れなかった」と涙する。義勇が泣くのは、このシーンだけなんじゃないかな? しかしその直後、炭治郎は鬼化して目覚める。そのとき義勇はすぐに炭治郎を殺そうとする。もちろん、炭治郎を殺したかったわけじゃない。だけど、どんなときでも人殺しの鬼は殺さなければならない。生かしておいても救えない。この強い意志があったからこその行動だったのだろう。しかも、義勇にとって、姉、親友に続いて弟弟子という、三人目の最も愛すべき人だったはずだ。そんな時でも判断を誤らない義勇。惚れる。柱たるにふさわしい統率力はこの判断力にあるといえるだろう。

組織の上に立つ者に最も必要なのは、判断力と責任感だと思っている。「今、どうすべきか」の判断がとっさに下せること、自分が取るべき責任を取ること。これさえできれば、他者との信頼関係も構築できるし、不利益を最低限にとどめられる。私にとって義勇は、理想の上司像だ。

ブログをはじめたきっかけ

ブログをはじめました。その理由は二つ。

一つは、言葉にする力を上げるため。昔から考えるのが好きだった。だけど、言葉にしようとすると言葉が追いつかない。そんな事が多い。だから、とりあえずたくさん書いてみる。質より量。

もう一つは、最近いろんな文化に触れるようになったから。
去年の今頃、YOASOBIにハマり、ぷらそにかというユニットにはハマった。そこから、いろんな音楽を聞くようになった。音楽について、歌詞について、歌い方について、いろいろ考える。
また、毎月映画を観るようになった。映画の日に映画を観る。これは年に1回、コナンの映画を観るだけだった私にとっては劇的な変化だった。観る映画が12倍になる。考えることも12倍になる。
そして、最近本を以前より読むようになった。小説はあんまり読まないけど、それでも考えることは多い。
そんな考えをまとめるため、ブログをはじめた。映画とか音楽とかのレビューが多くなると思いますが、気が向いた時には覗いていってください。

「花束みたいな恋をした」の「花束」って何?※ネタバレあり

映画『花束みたいな恋をした』を観た。

あらすじ

山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)は明大前駅で出会う。終電を逃し、なりゆきで朝まで共に過ごした二人だったが、そこで意気投合。二人は押井守を神と仰ぎ、天竺鼠のライブチケットを買い、今村夏子の本を読み、きのこ帝国を聞き、じゃんけんでなぜ紙が石に勝てるのかに疑問を持っていた。

すぐに仲良くなった二人。付き合い、同棲し、結婚まであるかと思えたが、ちょっとしたすれ違いで二人の距離は広がっていく。

感想(以下ネタバレあり)

この映画、刺さる。映画を観た後に舞台挨拶とかをYouTubeで観たが、「3~40代のおじさんがそろって過去の恋愛を語り出す」といわれてはっとした。気づいたらおっさんだった。

まず何が刺さるって、二人の関係性。距離の取り方。「今日会うためのチケットだったってことですね」という台詞に見つめ合う二人。麦が作った映画を「観たい!」という絹。絹が帰ろうとするのを追いかける絹。同棲してからも、すれ違ってからも、二人とも冷静で、声を荒らげることはあってもすぐにクールダウンする。そんな二人の人間性が刺さった。

それから、最後のファミレス。別れを躊躇する麦と揺らがない絹。男女の違いというと最近はセンシティブだけど、いわゆる恋愛における男性像、女性像に重なる。お互い悲しいはずなのにね。考えは違う。そこが面白くもあり、切なくもある。

日常を切り取った映画

この映画の魅力は、大きなきっかけがない、日常を描いた部分にあるという。何気ない日常。付き合ってからすれ違って別れるまでの5年間。劇的な出来事はないからこそ、誰でも共感できる。

恋愛って不可逆変化だなあ、なんて最近はよく思う。最初は自分の曲げてでもその人に尽くしたいと思う。100点の相手なんていない。70点80点の共通点があり、そこから合わない20点30点は自分で合わせにいく。麦と絹も、映画や本、音楽の趣味は合ったけど、絹はガスタンクなんて興味なかったし、麦はミイラに引いていた。だけど、二人でいることが重要で、二人でいるためならなんでもできちゃう。その「合わせても良いかな」「この人のために合わせたい」と思うことが恋なのかな、なんて。だけど、ちょっとしたすれ違いを経験してしまうとそこには戻れない。70点80点あると思っていた共通点は、気づけば50点60点になっていて、自分が合わせようとしていた20点30点も失われ、昔との差に失望する日々。それが麦と絹にとっては、仕事と夢の折り合いであり、ゼルダであり、パン屋さんの閉店だった。その後にいくら「初めからやり直そう」って思っても、戻れない。やり直せない。なぜなら、最初あった「この人のためなら受け入れられる」っていう盲目さがもうないから。

花束って何なのか

題名にある「花束みたいな恋」って、何なのだろうか。考察動画なども見てみたが、「男は捨てる場所を探す、女は飾る場所を探す」「二人の思い出一つ一つが花」などさまざま。よくわからない。でも私が直感的に思ったのは、その一瞬が綺麗だったってことなのかな、ってこと。花束って、もらったときはとても綺麗だし、感動する。でもずっとは綺麗でいられないし、根が張っていない以上、やがて枯れる。もしかしたら、それでも思い出すのは枯れたことじゃなくて、もらったときの綺麗な花束であり、もらったときの感動的な瞬間そのもの、みたいなこともあるのかも。「はじまりは、いつもおわりのはじまり」が象徴するこの恋愛は、まさにこの花束みたいな恋だったのかもなあ。花束みたいな思い出だからこそ、「音楽を聞くときはLとRを分けちゃだめ」って言いたくなっちゃったんだろうな(わざわざ言いに行くのには私怨もある気がするけど)。

追記:「勿忘」だと、「願いが叶うのならふたりの世界また生きてみたい」「巡り巡る運命を超えて咲かせるさ愛の花を花束を」ってある。Awesome City Clubの解釈では、現世での恋が花一輪ぶんで、それを来世でまた一輪咲かせて…やがて花束を作る、みたいなスケールの大きい話なのかもしれない。そうすると、花束は「一生に一度の恋を何回も輪廻転生して束ねたもの」になるか。

おまけ

テレビドラマと実写映画の違いはわかってなかったけど、音の使い方が違うのかもな、と思った。映画は、BGMとか雑音がなく、モノローグや生活音がメインとなるシーンが多い気がする。日常の喧噪の中で観るテレビと違い、映画は映画館という静寂な空間で観るからなのかな。これが一般に言えることなのか、私のイメージにすぎないのかはわからないけど。